きのおもむくままに
記事一覧ある時在る所に,何でも良く理解する好奇心旺盛な生徒と,何でも知っていて親切に教えてくれる先生がいた.
ある時,生徒は聞いた.
「なぜ 1+1=2 なのですか?」
先生は答えた.
「1 とは何だと思いますか?それは人が最小単位だと直感できる概念の,表現の一つにすぎません.そして足して2になることは,一貫性のある規則を付与しているに過ぎません.論理と言っても良いものです. 例えば,赤いリンゴが2つあったとしましょう.この時,リンゴを1として全部で 1+1=2 としても良いです.リンゴを2として 2+2=4 としても良いです.あるいは 1+1=11 としても良いです.長きに渡る風雪に耐えた結果が10進数として…云々かんぬん…」
ある時,生徒は思った.
『世の中には多くの人がいる.希望を見いだして精力的に生きる人がいる.一方で絶望し,死んでゆく人がいる.そのバリエーションを決めているのは一体何なのだろうか.社会の中である一定の力が人に働くとき,人が最終的に行きつく先はどこなのだろうか.人生の本質は絶望なのか,希望なのか.幸福なのか,不幸なのか.広い世界にとっては両者とも,人間の主観が生み出す取るに足らない芥なのか.
ある不快な事実があったとき,これに苦悩する人としない人.この違いはどこから来るのか.不幸な運命の多寡だろうか.あるいは悲観的か楽観的かといった,対象を捉える傾向の違いによるのだろうか.
苦悩した結果,絶望する人と絶望しない人.この違いはどこから来るのか.不幸な運命の大小だろうか.あるいは運命に立ち向かう勇気の違いだろうか.
絶望してもそこから抜け出す人と,絶望に生きる人.この違いはどこから来るのか.キリスト教のように禁欲的に理性を働かせることによるのか.仏教的な煩悩からの解脱によるのか.あるいは思索の世界の中で,一人絶望の闇から抜け出せなくなるのだろうか.
絶望に死ぬもの,死なぬもの.この違いはどこから来るのか.私は知りたい. これらの本質を知るには,先生に何と聞くのが良いだろうか.先生が私の知りたいことを見抜き,私が理解するのに最も適した角度から光を当ててくださるには,どんな言葉を選べば良いだろうか.』
生徒は考えた.そして期待に満ちた顔で先生に尋ねた.
「先生,人にとって幸せとは何でしょうか.」
いつもより少し長い間があった.生徒は思った.
『難しい問題に違いない.先生は今,色々な方向から説明を組み立てていらっしゃるのだ.』
先生の口が動く気配はない.先生の目と鼻は真っ直ぐ生徒の方を向いている.先生の表情にはいつものような温かさがない.生徒は不安になってきた.その時,永遠に開くことが無いように思われた先生の口が動いた.
「それは君自身で考えなさい.」
先生の目は瞬きもせず,生徒の瞳の奥を見つめていた.生徒はどきりとした.
『今までこんなに冷たい返事はなかった.余りに抽象的な質問を言葉足らずで言ったのが不味かっただろうか.それとも格好つけで聞いていると思われたのだろうか.』
生徒は何か誤解を与えたに違いないと思い言った.
「先生,何か誤解を与えたのならすみません.ただ私は本当に知りたくて聞いたのです.賢く思われたいなどとも思っていません.」
先生は相変わらず答えた.
「対象について純粋に知りたいと思う君の心に疑いはありません.私は君の誠実さを他の誰よりも信じています.君の知りたいことも伝わっています.ただそれは君自身で考えることなのです.」
生徒は先生の顔を俯瞰した.そこには喜びでも怒りでもない,期待でも失望でもない,中性的な色が表れていた.
生徒は何かを感じ,先生に軽く一礼した.先生はその場を去った.
生徒はようやく自分自身で考えることを始めた.
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