まめいろん

きのおもむくままに

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30 July 2019

甲さんの日記

私はこれまで必死に努力してきた.だが残されたものは多くの概念と,あらゆる方向から物事を切るために冷たく研ぎ澄ました刃物のような論理だけだった.そして幸せからは程遠く,周りを傷つけ,破壊し,遠ざけ,気づけば一人だった.孤独が私の人生の本質だと思うこともあった.無知な者に煩わされることもなく,傷つけあうことも少ない.しかし安全なところで自己没頭を続けても,苦しいことに違いはなかった.確かに中庸の教えを守れば大きな不幸から逃れられることを学んだ.しかし肝心の心は満たされなかった.知的な楽しみの時間も,私を慰めてくれるものではあったが,苦悩と虚無の間を行き来するばかりで,癒し幸せに導いてくれるものではなかった.

私は柏木先生に導かれ,遥に出会い,徐々に奪うことではなく与えることに気づき始めた.それは暗闇の中を一人彷徨う私にとって,ようやく見えた微かな光に思えた.与えることが幸せだと言う者は多く知っていた.だがそれが何を意味するのかはわからず,綺麗ごとだと思っていた.様々な本や教義を漁った.だが人に与えよという教えからは,人に与えることは学べなかった.私がそれを学んだのは,純粋で美しい人を見たからだった.美しい生きた教えが近くにいたからだった.そしてその美しい人は,美しいものを美しく見る心を持っていた.私はその人との何でもない日々の中から,その事を学び,徐々にわかり始めてきた.

確かにこの世は競争である.競争の中で他者と比較する心が生まれるのは必然である.あるいは他者と比較する抑えがたい人の本能が苦悩を生んでいるのかもしれない.他者より先に,他者より前へ.そんな価値観が世界を支配している.そしてこれからも支配するであろう.その中で我々は,その価値観に支配され,己を研ぎ澄まし,競い,やがて争い,奪い,破滅する.互いがこのようなことを繰り返す歴史は形を変えて続いてきたし,これからも続くだろう.人はきっと破滅し,気づき,忘れ,そして再び貪る.貪ることしか知らぬ者が消えない限り,人は守るために戦うか喰われるしかない.これは悲しい真実である.

私も戦い,貪る者となり,そして破滅した.だが短い人の人生の中で競うこととは違う価値に気づいたのだと思いたい.与えることの幸せに.単なる冷たい概念として認識するのではなく,熱い血肉とするきっかけを得たのだと思いたい.気づく前の私にとって,与えることは義務でしかなかった.だが美しいものをありのままに楽しむ純粋な心に触れ,徐々に清められ,わかるようになってきた. 私は多くの人から多くのものを奪った.倫理的に許されないことも行った.だが罪人として自分を戒め生きるのではなく,自然に多くのものを分け与えられる生き方をしたい.これは私の希望である.最初は自身の救いを求めるためであってもかまわないと思う.むしろ私のような利己的な人間は,そこから出発しなければならないのかもしれない.与えようと思う利己的な心からは,永遠に真の愛は生まれないのだと思う.自分を救いたいという真に純粋な思いは,誠実な内省へと向かう.自らの本性を知り,抑えがたい人の欲を知る.そうして紡ぎだされた思いはきっと,欲望に支配されず素直に世界を見たいという憧れに繋がっている.純粋で美しい人を尊ぶ気持ちに繋がっている.そして美しい人の心を通して自らも美しく生きる可能性を見いだし,世の中が美しいものであったことを再び知るのだと信じていたい.これも私の希望である. 私に特別な才があるのならば,これまで磨き上げて来たものの中に光る何かがあるのならば,それを人のために使える人生を送りたい.身近な美しい愛する人の幸せを願い,同じ目を通して美しい世の中を見る中で.ささやかな日常の中で.

tags: 小説,短編