きのおもむくままに
記事一覧今週末は風の強い雨が続いた.雨は嫌いだ.昨日はやや憂鬱な気分で,半端な思考が私自身をふらふら悪い方向へ導くように思われたので,午前中は寝て過ごし,午後はジムに行った.
今日は少し寝坊してから鎌倉へ行った.駅近くの喫茶店に入った.隣では老人が二人,世間話を始めた.控えめに言って不憫な老人達であった.互いに対象そのものを純粋な興味に沿って語ることもなく,羨望を内に留めることもできない.現状を憂いて,政治家に対する批評にすらなっていない文句をまき散らしていた.おそらく彼らが最も憂いているのは彼ら自身の現在だろう.そこに共感をおぼえつつも,やはり不憫な反面教師として映った.
こうした憂いが少しでも少ない,美しく気持ちのよい社会で生きたい.これは皆が希望することだろう.こうした社会にするには,政治的な枠組みの議論を抜きにして,次の二つの根本が大切だと思う.
①様々な能力や仕事をする人々が互いに尊重し合うこと.
②それぞれが自身の活動に少しでも純粋な興味をもち専念すること.
①と②は相補的な関係にある.①から②への作用について.他人に尊重されることと無視されること,興味が続きやすいのはどちらか.前者だろう.もちろん真に純粋な興味とは,対象と自身の間にのみ成り立つ関係である.しかし万人がそこに至るのは難しく,他人からの尊重は,我々にとって興味を持続させる重要な報酬である.②から①への作用について.興味あるものを持たない人は退屈に耐えられない.多くの歴史と哲学的思索の結果が示唆する通り,興味は外部への善い働きを生み,退屈は外部への悪い働きを生む.例えばラッセルは興味について次のように述べている 1.
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またアランは退屈について次のように述べている 2.
およそこの世において退屈している人間ほどおそろしいものはない.底意地の悪い人たちはみんな,退屈さに不満を感じているのだ.底意地が悪いから不満を感じているのではない.むしろ,彼らがどこへ行こうと彼らにつきまとっているこの退屈さは,彼らが自分のもっている完全性 [真理] をまったく発揮していないこと,またしたがって,盲目的な,機械的な諸力のいうままに行動していることを示す符牒なのだ.
またここで意図する善悪とは,持続性ある社会を実現するための基準に基づく何かである.そして恐ろしいことに,これは人間本来が持つ性質に反していると思う.生物としての人間は,退屈が種の選別に向うように作られているのだと私は思う.話を戻すと,自らの活動に専念できない人が多くなるほど,社会全体は悪い方向に向う.
思うに人が形成できる社会の規模は,①の「様々」という範囲に比例する.歴史が指し示すように,人はその範囲を広げる方向に向かっている.そしてそれを可能にしているのは人間の意志と,それに沿って拡大する理性である.
アランが言うように私も思う.理性は意志の奴隷であると.(「幸福論」プロポ93「誓わねばならない」参照.)したがって我々が目指す美しい社会とは,人間本来の性質に逆らう強い意志によって,理性を拡大させることである.皆がそれを行う力がないのであれば,皆の意志や希望を可能にする枠組みを設けるべきである.それは政治であり,倫理や道徳であり,宗教である.次の世代に我々の意志を伝え教育することである.一方で私が知りたいのは,生物としての長い歴史に反するその行為によって,この先われわれがどこに至るのかである.これは我々自身で見定め,目指すものである.そこに正解はなく,あるのはただ我々の意志のみである.
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